むぎちゃん萌えは危険@mossya

けいおん面白いです。今期見てる中では今のところ
けいおん!>咲>>>アスラクライン東のエデン
って感じです。
咲は何で面白いのかよく分からないけど面白いから毎週見てます。
アスラクラインはちょっとだれてきたけどせっかくだから見てる感じ。
東のエデンは、ある意味考察に値します。ここまで見た感じだと、ストーリーは面白いんだけど主人公の女の子がちょっと(ほんのちょっとだけ)ビ○チ臭いのが気になっちゃってどうも駄目です。女の子向けのアニメって感じがします。性転換したらむしろ面白そうです。主人公がスクイズの誠みたいなゴミなんだけど、そいつを抱え込んでなお、ひょうひょうとして変な携帯で世界とかを救おうとしちゃうような完璧な、かつ記憶喪失な女の子が出てくるっていう。これでやってたら個人的には神アニメ確実です。でもこれだとシリアスな展開が想像できませんw

で、以下本題のけいおん批評です。長すぎてキモ恥ずかしいです。これを書いてる今はアニメの中ではちょうど一年が経って、ういとかあずにゃんが入学してきたところ、という前提です。

「むぎちゃん萌えは危険」みたいな幾分挑発的な(むぎちゃん好きに対してはむしろ挑戦的な)タイトルをつけちゃいましたが、それはこんなことを思ったからです。

“萌え”はオタクの屈折した自己愛、ナルシシズムと切り離せない、みたいなことをどこかで聞いたような気がするのですが、それがけいおんを見ていてなんとなく、“ある意味では”腑に落ちるようなところがありました。それはねーよwと今までは思ってたのですが。

第5話くらいです。むぎちゃんの様子がおかしくなったのは。先生と唯がなにかやってるときに急に女の子同士ってなんちゃらかんちゃらって言い出しました。これは多分百合アニメだったら禁句です。私は『ストロベリーパニック』も『マリア様がみてる』も見たことが無いので推論ですが、(いや推論でこんなことを言うのはよくないと思いますのであまり信用しないで聞いてほしいのですが)こういった百合アニメでは女の子同士で手が触れ合って頬赤らめるみたいな演出は当然あると思うのですが、今回のむぎちゃんの発言のようなそれを解説するというかその演出に対する説明みたいなものを挟むということは普通しないと思うのです。なぜならそれは視聴者が勝手に思えば済むことだからです。あるいはかっこいい系の女の子がそんな発言をして周りの女の子がキャー!とかいうやつは想像出来なくはありませんが、あの場ではむぎちゃんがそのような発言をしたあと、澪と律は、キャーではなく、え、みたいな微妙な反応を示しました。これは『らき☆すた』や『まりあ†ほりっく』のように百合をネタとして表現しただけとも言えるかもしれませんが、もう少し深読みもできるかなと思うのです。

ここで重要なのは『らき☆すた』『まりあ†ほりっく』『けいおん!』のそれぞれの主要キャラクターの構成の違いです。『らき☆すた』や『まりあ†ほりっく』のキャラクターは“全員が等しく”ネタ的というか非現実的な人物像を呈しているように思います(反論があるかもしれませんがとりあえず保留してここでは“全員が等しく”というところが重要です)。しかし『けいおん!』においてはその非現実的なキャラクターというのがある意味むぎちゃんしかいないのです。ほかのキャラクターは多少個性的ではあれ、現実的な常識の範囲に収まった性格(家庭事情とかも含めて)を持っています。それに対してむぎちゃんだけが少し異常というか次元が違う感があるのです。大金持ちで、別荘をいくつも持っていて、楽器も半額以下に値切ることができて、くじ引きでハワイ旅行を当てたり、唯が重そうに運んでいた機材を鼻歌交じりで軽々と運んでいたりします。アニメだからこんなキャラクターがいること自体は驚きもしないのですが、普通ならこのような一人だけ次元が違うようなキャラクターは特殊な位置を占めたり、多くは主人公だったりヒロインだったりするはずです。しかしここではむぎちゃんは(一見)ほかの軽音部のメンバーと完全に並置された、普通の女の子として表現されています。

このようなコンテクストの中での、女の子同士ってなんちゃら発言なわけです。つまりこの瞬間に、むぎちゃん好きは変な発言をしたむぎちゃんに対して萌えると同時に、そこに上の次元の人間=私をメタファとして見出さざるを得ないのです。(ここで“上の次元の人間”というのは視聴者ではなく、ほかならぬアニメ製作者、京都アニメーションなのではないかという反論があるかもしれませんが、アニメにおいては製作者と視聴者がある意味共犯関係、あるいは共依存的な関係にあることを考えれば、私、と製作者、はここではほぼ同義で捉えることも出来るのではないでしょうか。)そんなわけであんなタイトルになりました。

もっとも、先にも述べたように私たちはこのようなぶっ飛んだキャラクター自体には慣れているので、一人だけ浮いているからといってしかし浮いていないものとして捉えて、あるいは浮いていることにすら気づかず、女の子たちの戯れあいを見ることも出来ます。ただ、女の子しか出ないアニメとはいえ、男の視聴者が自分を投影する為のキャラクターを求めなくなった訳ではないと思うので(実際求めなくなった人もいるとは思いますが)、その役を誰が引き受けるかとなったときに軽音部4人のうちの一人が選ばれたというのはごく自然です。まあなにより、このような多面的な解釈を誘発するというか、微妙な、絶妙な表現をさらっと見せてくれる京アニが本当にすばらしいです。マンガ版では全員がベタで、ここまで複雑な解釈は出来ないようになっているように思います。(以前の記事参照http://d.hatena.ne.jp/take-sub/20090409/1239291623)

最後に。澪がコスプレしたときとかに唯が言う「か、かわいい…」みたいな台詞も視聴者の代弁と言えなくもないですが、やはりそれはただのベタな戯れあいであってそれはそれでいいのですが、コスプレした澪に萌えると同時にそれに萌えた唯と、萌えられた澪の関係に萌えるみたいな、やっぱりむぎ的な視点が個人的にはセオリーですw むぎちゃん的な視点に立つ=むぎちゃんに萌えるということにはなりませんが、そのときにむぎちゃんの変な様子を見せるカットが提示されればやはりそれにも萌えざるを得ないのです。


(澪の歌詞に感動する唯(左)と、その二人を見て萌えるむぎちゃん(右)が同じ画面構成で反復されています)