リアルとリアリティのあいだ@mossya

リアル≒現実、リアリティ≒現実感・ありそうな感じ
っていうニュアンスで書きます

アニメやドラマなどで多用される現実ではありえないシチュエーションや台詞などがあります。例えば二次元ツンデレ美少女ならべ…べつにあんたのt(ryとか。アニメを見ているときは、このようにありえない髪型や性格や言動を前にしているにも関わらず、そこに女性としての、人間としてのリアリティを見出してしまっています。映画などでも、よく考えてみればありえない、こっぱずかしい言い回しなんかがありますが、見る側はそれにリアリティを感じて受け入れています。


建築の話。
コルビュジエは「住宅は住むための機械である」と言いましたが、実際建てた建築は機械とは程遠いです。そう考えると、彼も機械や工場、抽象絵画などの中に住宅としての、あるいは建築としての“リアリティ”を見出していたのだと思います。現実的には住宅が機械ではないということを知っていながら、です。
 
 現実(リアル)と現実感(リアリティ)は、それを感じる個人の中で、ある程度切り離された状態で同居できるのでは無いでしょうか。
そして新しいものとか面白いものというのは、リアルとリアリティの間の差異、ギャップみたいなものの中から生まれてくるのでは無いでしょうか。
さらに、リアルは一通りですが、個人が見出すリアリティは無数にあり、それらは他人と共有できたり出来なかったりするのだと思います。


 ところで、2年生の設計の授業のTAをやることになりました。はじめの課題が、ダンボールでいすを作るというものです。接着剤は使用不可、使えるダンボールの枚数も限られているので、形を考えるのと平行して、その形をどうやって作るか、ということも考えなくてはいけません。まあ、ほとんどの人はそんな事は分かっていて、ダンボールで作れそうな、面で構成されたようなデザインのスケッチを描いていました。しかしその中に一人か二人、四本足背もたれ付きの、木で作ったような椅子のスケッチを出してきた人がいました。先生からは、どうやって作るんだとか、記号的な形に頼るなとか言われていたのですが、どうなんでしょう。作り方は当然考えなくてはいけない。でも記号的な形に頼ってはいけないというのは少しアレな気がします。記号的な認識で捉えている世界を切り捨てることはかなり苦労するというか、疲れることだと思うのです。それに、記号的な物の中に見るリアリティみたいなものもあると思います。先に述べたように、新しいものがリアルとリアリティの間の差異から生まれてくると考えると、記号的な物の中に見るリアリティと、実物の間の差異にも、面白いものが生まれてくる可能性が秘められているといえるのです。(おそらくリバイバルという手法は、この可能性を信じて旧い様式なんかを引っ張り出してきているのだと思います。デザインとしては後ろ向きなのかもしれませんけど。)
 だから、ダンボールで作るには現実的でないかたち、おそらく成り立たないかたちである細い4本足のダンボール椅子が、彼の中でリアリティを獲得し、明確にイメージ出来ているのであれば、それは他人に「リアリティが無い」と言われようが、やっちゃうべきなんだと思います。
 彼には無責任にこんな感じのことを言いました。