アモラルなリアル@mossya

この話は前に書いたリアルとリアリティの話http://d.hatena.ne.jp/take-sub/20090415/1239804116につなげて書いていたのですが、いまいちうまくまとめられなくて、今に至りました。で、結局よく分からないまま上げちゃいます。本文に書いた「文学のふるさと」は短いしネットで読めるので読んだことない人はこの日記は読まなくてもそっちは読んでみたらいいと思いますw 青空文庫 坂口安吾文学のふるさとhttp://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html


高校のとき国語の授業で習った中で、今でも印象に残っている文章の一つに、坂口安吾の『文学のふるさと』があります。その中で「アモラル」という言葉が出てきました。それは文字通りモラルが無いという意味ですが、モラルハザード的なことではなく、“教訓が無い”とか、“突き放された”ような感じについて書かれています。冒頭の赤頭巾の例だけ引用しておきます。

“シャルル・ペロオの童話に「赤頭巾(あかずきん)」という名高い話があります。既に御存じとは思いますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶっているので赤頭巾と呼ばれていた可愛(かわい)い少女が、いつものように森のお婆(ばあ)さんを訪ねて行くと、狼(おおかみ)がお婆さんに化けていて、赤頭巾をムシャムシャ食べてしまった、という話であります。まったく、ただ、それだけの話であります。”
“愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐(かれん)な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然(しか)し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。”

この文章を読んだときに、高校のときの私はかなりはっとさせられました。まさに“ふるさと”のような、知ってるけど普段は忘れてることような、…デジャヴュとはちょっと違うけどそれに近いような感覚。言われてみれば人の死なんかは大抵アモラルです。全くドラマチックじゃない。所謂死亡フラグ的なものは立たない。このようなアモラルなことは実際結構身の回りで起こってるんだけど、ほとんど意識しないというか、文字通り「話にならない」ことなんだと思います。でもそれが一旦文字として書かれたものになると、どういうわけか何かしら感じるものがあったりします。

以下リアルとリアリティの話に絡めて
現実=リアルには往々にしてアモラルな状況がある。それはいいとして、私たちはこのようなアモラルなリアルに対してリアリティを見出すことは出来るのでしょうか。言い換えれば、何らかのリアリティを持って(使って?)このようなアモラルなリアルをアウトプットすることは出来るのでしょうか。(コルビュジェ機械的なリアリティを持ってリアルの住宅をアウトプットしたように。)アモラルなリアルをアウトプット出来たなら、建築化出来たなら、なんの脈絡も無くぷっつりと終わってしまう物語、荒唐無稽な物語、静かな、透明な、切ない「ふるさと」のような物語を、その建築は語ることが出来るはずです。それはものすごく自然で原初的な建築なんだと思います。
もっとも、“モラルが無いことがモラルだ”と安吾がいうように、そもそもリアリティがないことがリアルだ、ともいえるのかも知れませんけど…。そうなると建築に限らず「デザインする行為全般」みたいなものではアモラルなリアルを作ることは出来ないことになってしまうように思います(私は以前リアリティとリアルの差異から面白いものが生まれるみたいなことを書きました)。そう考えると、やはり建築(建築家)は今まで通りリアリティがあって、モラルがある物語を語るべきで、そのほうがいいような気もしています…。