ゼミ旅行 山梨レポ 1 @mossya

ゼミ旅行 山梨レポート 一日目

山梨文化会館/丹下健三
なんかアジト的な雰囲気を感じた。増築が行くところまで行っていてフロアーがシャフト間にびっしり詰まっている為、遠くから見るとかなりコロッとして完結した量塊に見える。しかし近づいてみると、その印象はやはり違ってくる。シャフトに梁をかけるための突起や、屋上のにょきにょき飛び出したシャフトの端部などを見るにつけて。これらのシャフトの突起やにょきにょきの天辺は、多少パフォーマティブに見えるけれどもやはり増築可能性を示している。突起のない方向への増築は可能であったとしてもそこにリアリティを感じることは出来ない。またにょきにょきの天辺はさすがにもう継ぎ足されることは無いであろうシャフトの切断面だが、私たちは継ぎ足すということにリアリティを感じてしまう。逆に中層階に残されたヴォイドは増築可能性をコンスタティブに示しており、この建物のアイデンティティを保持するためには死守されるべきものである。この空間的魅力を備えたヴォイドの印象は、建設途中で放置された土木的構築物を見るときのそれに近い。完成させようと思えば出来るのに、何かの都合で建物の完結が先延ばしにされている、という印象。あと個人的には建て増した部分はその時代によって仕上げ等が変わっていても面白かったんじゃないかとも思う。


フルーツミュージアム/長谷川逸子
どこから入るのか分からない。ここでは三つの別々の構造形式を持ったしかし何となく統一感のあるドーム的な建物が緩やかな斜面地に配置されている。一番下にあるのがホールとカフェが入った傘を伏せたような構造の建物。その上方にあるのが微妙に潰れたような半球状の温室。その脇にあるのがレストランと物産館を備えた建物で、周りを北京の鳥の巣のように白い籠で囲ってある。どこから入るか分からなかったのは半球の温室である。じつはこの温室と一つ目の傘のような建物は斜面を利用した地下でつながっていて、その地下にはフルーツミュージアム(メイン機能w)があったのだ。斜面がいい感じだったので気分としては何となく始めに天辺まで行きたくなるもので、地下にそのようなものがあるとは思わなかった。特に地下への入り口が分かりにくかったというわけではないけど。この建物群についての感想はそんな感じ。ところで温室って中に入るとどこも代わり映えしないような気がするけどなんで。ぐにゃぐにゃ曲がった道と小川みたいなの、たまに滝。いままで行った温室で「ここはどこの温室でしょうクイズ」されても答えられない。


旧高野家住宅
今から300年近く前に建てられた建物で、ついこの間まで人が住んでいたというのには驚かされるし、こんな立派な家に住めるというのはうらやましい。このような建物に対して建築的な感想を述べることはあまり出来ないけど、やっぱり屋根。シンメトリカルな正面を成している切妻の面的な構成にはため息が漏れた。また屋根裏の小屋部分には廃材を使いまわしている所もあって、つまりそれはこの家が建てられる前にどこかで使われていたものだと考えると、これはまたすごい話。やれやれw


ヴィラ・エステリオ、サンタマリア教会(異業種交流型工業団地「アリア」内の二棟)/北川原温
人がいない結婚式場を見せてもらったということなのだけど、天気も少しドンヨリ気味だったこともあって、私には始め建物がとても非現実的なものに映った。アモラルに映ったと言い換えても良い。私はアモラルという言葉が好きで、前にも記事を書いたけど、それは救いがないとか、突き放された感じ、を意味する。この建物を見ての第一印象はそのような感じだった。
技のデパート」とは舞の海の異名である。ともするとデパートという単語には何となく古臭いイメージが染み付いてしまっているから、今だったらショッピングモールと言い換えても良いのかもしれない。語呂悪いけど。デパートとショッピングモールの違いはいろいろあるだろうけど、ひとつにはスペクタクル性の度合いというものが上げられると思う。後者はショッピングという“体験”をより重要視しているというか。そこにはより演出された空間がある。そこで、もしかしたら失礼な風に聞こえてしまうのかもしれないけど、今回の北川原さんの建築を「技のショッピングモール」として見ていくと、最初の漠然たる印象が多少和らいでくるように思う。ここで陳列(というよりプレゼン?ディスプレイ?)されている建築的な技の数々は、一目見ただけで「あ、なるほど、すごーい」と感じさせてくれる。例えばヴィラ・エステリオは、スロープ状に高くなっていく垂直な壁を折り曲げて囲うことで建物をつくっている。というのが一目で分かる。美しいと感じると同時に「わーすごい」というある意味陳腐な感覚がちゃぶ台をひっくり返す。それはなぜか。単に当日のモチベーションが低かったというわけではない。
また、さっきの壁に開口を開けることによって見えてきた壁の断面には蛍光灯が仕込まれており、断面全体がぼおっと光るようになっているが、それもまた美しいというより先に「すごい」といった感じなのだ。他にも、アート作品でもある白い吹き抜け、教会の、レースの筒が並べられて出来た十字架、造形的な窓と水面など、どれも美しいのだが、それらが粋な演出の一つと見えた途端に?全部「すごい」に還元されてしまう。また“自動”というのはどうしても私たちに魅力的に映るらしい。教会の大きな扉が「ういーーん」と(音がしたかは覚えてないけど)開くと「おおー」という声が自然に出てしまったし、披露宴会場の庭に面したブラインドが「ぶいーーん」と収納されていくとまた「おおーw」といった感じなってしまうのだ。
この文を読んでる人は美しいでもすごいでも感じてるものは大差なさそうじゃんと思うかもしれないけれどそれは私の語彙と表現力が足りない為であって、もどかしい。美が痙攣的なものだとすれば「すごい」はもっと鈍く快楽的な麻痺のようなものだろうか。「すごい」「わーすごい」の感覚は私をふわっと持ち上げ、そのまま思考停止に追いやってしまう。次々に提示、プレゼンされるすごい技たち。スペクタクルな空間。おそらくここで提示された技のどれかひとつだけを取って建築をつくれば、それはまさに痙攣的な美を喚起させるものになるに違いない。美というか…なんというか、アモラルの反対。アモラルの反語はモラルではないから、デ・モラル?意味的には、救いがある、教訓がある状態、物語で言うならちゃんとしたオチがあるストーリーといったところだろう。アモラルもそうだがデモラルも建築用語として使うときにどんな意味になるのかちゃんと表現できない。単に明快さ、分かりやすさ、ではないし。ともあれ、アリア内の建築はそういったデモラルな状態には全く無関心であるように思うのだ。建築単体としてもそうだし、建物同士の関係もそうである。一人の建築家が設計したとは思えないくらいだ。隣接するもの同士の関連性のなさが、ここではスペクタクルな空間をつくる重要な要素になっているのだろう。考える暇を与えず、荒唐無稽に展開されるシークエンスによってアモラルな状態をつくりだす――。
ショッピングモールからディズニーランドまでのスペクタクル空間は、このようなアモラルな状態を少なからず含んでいるように思う。ディズニーランドが開業から数十年たった今でも相も変わらず人を集め続けていることは、私にとって結構驚異的なことで不思議に思っていることでもある。建築の持続可能性を考える上では単にコンクリートの耐用年数とかリノベーションのしやすさ以外にも、もしかするとこういったところからも学べる部分が多いのではないか。
道路沿いにはとどこもかしこもブドウブドウブドウの山梨だったが、主要道路からぶら下がったアリアという場所は、それ自体になにか新しい建築の種を含んだ全く別の果物なのかもしれない。

なんちゃって。万が一北川原さんに見られたら怒られるなこれは。ここまでで一日目の見学場所レポートは終了。二日目はもっとさらっと書くw