いまどきは撮影じゃなくてスキャンらしいよ@mossya

下のsiameseの記事が久々の[本とか]カテゴリーじゃん。もういっこ繋げようかなって。いや別にね、今書いたわけじゃなくて少し前に書いてたものなんだけど、マンガでもないんだけど、だーっと書いたので文が汚くてupしないでおこうかなーみたいに思ってたやつね。

メディア・アーティストの藤幡正樹さんが書いた「不完全な現実 デジタル・メディアの経験」という本を読んだ。おすすめ。いいこと沢山書いてあったけど中でも個人的にクリティカルヒットな部分を紹介しようと思う。
 藤幡さんはこの本の中で、ファインダーが無い携帯とかデジカメで写真を撮ることは、撮影(シューティング)ではなくむしろ「スキャン」に近い、みたいな事を言っていて、これはかなりのアハ体験だった。本の中で書かれている例を挙げれば、例えば人だかりの中心にあるものを、手を伸ばして上から撮影して後でカメラの液晶越しに確認する、とか、友人には見えていない木にとまった蝉をカメラで撮って見せてあげるとか。そういった状況で藤幡さんは、画像イメージが「あれ」や「これ」みたいな指示代名詞的に使われていると言っていて、これもまたなるほど。自分の目(主体)と関係ないところで撮影できちゃって、その撮影する行為だけで「見た」ということの証になってしまうという状況。同時にこれは“見ないこと”の実践でもある。文章を読むようにイメージを読み、イメージが記号的な使われ方をしている、と。そんな感じだったと思う。微妙に間違ってるかもしれないので興味あったら自分で読んでみて。
 グーグルのストリートビューなんかはまさに町並みのスキャン計画なんだろう思うし、こういうのももう撮影じゃなくてスキャンに近い。

 ただ、こういったスキャンされたイメージ、あるいはスキャンするという行為が、主体性を欠いた記号的なイメージ、行為としては機械的な、タスク的なものとしてしかありえないというのはつまらないことだと思う。いや、スキャンというのはそもそも対象を0距離で写し取るものなのだから主体性も何も入り込むアレではないのですよ、と言われるかもしれないけど。でも現物をそっくりそのまま写すことなんて現実には出来ないのだから、スキャンするにしても対象のどの側面、特徴をスキャンするのかという点で的を絞らざるを得ない。そのような立ち位置的なものはせめて主体的に決められるべきなのだろうと思う。でもそれでつまらなくなくなるかって言ったら?だなあとも思う。あるいはスキャンされたイメージは記号、言葉なわけだから、コミュニケーションのメディアとしての使われ方のほうが強いのかも知れない。となるとコミュニケーション自体が重要なわけでそのメディアとしてのイメージは重要ではない?(液晶に写っている蝉は重要では無くて蝉がいたという事実を友人と共有することが重要?)いや、スキャンされたイメージはメディアであってそれ自体がネタでもあるんだ、たぶん。ラスコーの壁画みたいな。
 ここでまさかのラブプラス。さすがにもうそろそろ下火なのかな、DSのあれ。いろんなところですごく批評的に語られていたのがなんともw私はやったこと無いけど、どんなゲームなのかはネットで見たので何となく知ったつもりになっている。今ふと思い浮かんだのでここの文脈に即して変態的に適当なことを書くと、あれは「オタク的な立ち位置に立ってどこかに居るといわれている彼女をスキャンして提示してくれるゲーム」なんじゃないかな。深くは触れないでおく。
 以前別の記事(http://d.hatena.ne.jp/take-sub/20090808/1249731148)の下のほうで、これはカジュアルでいいみたいなことを書いたんだけど。あの動画は今の話の流れで言うと確かに会場をスキャン(撮影者の視線とは無関係な撮影)してるんだけど、なんか楽しそうだしこっちも楽しいみたいな、そしてあの360度カメラ(スキャナ?)を背負った人の写真。すげえ!と思うと同時に、ばかじゃんwwwとも言いたくなるような。ところでカメラって、失敗するとぶれたり、ピンボケだったり、指が入っちゃったりするよね。スキャナってほとんど失敗しない気がするけど厚い本とかスキャンしてるときに、スキャン中手がプルプル震えて本がずれちゃったりすることはたまにある。そういうときに出来上がった画像って、ある部分からぐにゃっと次元が歪んだように引き伸ばされてたりするけど、それって結構面白い。まあそれとは少し違うかもしれないけど、例の動画撮ってる人はジャンプしまくってて、動画を見ている人のほうからもそのジャンプ具合が分かっちゃうところに、機械的なスキャンじゃない恣意性とか主体性みたいなものを見て取れるんじゃないかな。あの揺れが無かったらあの動画はすごくチープなものになっていただろうと思う。タイヤのついた機械にではなく人にカメラを担がせるという。人ごみの中を上から撮影する、蝉を撮影する、というのは人が機械的に振舞っていると言ってもいいのかもしれない。人を機械に置き換えることが出来る。しかし例の動画はそうではない。この部分に面白さがあるのだろうと思う。