瞼の裏に映る宮ちゃんにリアリティは宿るか@mossya

この前ひだまりスケッチ×☆☆☆で、ゆのっちと宮ちゃんが美容院にいったとき、ゆのっちが西日をくらって目をぱちぱちさせながら宮ちゃんを見るシーンを見て思った。そこではゆのっち視点で瞼の裏に焼きついた宮ちゃんすら見せられたのだけど(図1)、ああいう描き方って個人的にはなんかしっくりこない。例えば目を覚まして周りを見回すシーンとかでよくある演出なんだけど、外の環境と一緒に、閉じたり開いたりする自身の瞼の裏側がベタ塗り的に描写されるようなやつ。瞼の裏側に意識が行くことって実際はほとんどないじゃん。だからああいう演出は何となく変な感じ、リアリティがない感じがしてしまう。多分その本質は、この演出が目をぱちぱちさせている人自身の視点ではなく、その人の目玉の中に立った人の視点に視聴者が立っているという風に感じてしまうところにあるのではないかと思う。このあいだみてきた劇場版のハルヒもまさにこのシーンから始まっていて、キョンが朝目を覚まして目覚まし時計を止めるっていう。そこで観客はキョン視点、ではなくキョンの目玉の中に置かれる。劇場自体がキョンの眼球になっちゃうというような。
(図1:直射日光をうけた後のゆのっちの視点)
で、なんでこんなことを書いているかというと、ギブソンの先の本にもこのような目玉の中から環境を見たような図が載っていて、それにも違和感を感じたということを報告しておきたかっただけなんだけど。図2はエルンスト・マッハという人の絵で、ギブソンが引用してたもの。前の記事で書いた環境を認知するのと自身の身体を認知するのはコインの裏表みたいなものだっていうのを説明している図。まあ、理屈としては超共感できるんだけど図として描かれると、なんか変なんだよね。視界の外をベタ塗りにしちゃう表現がおかしいのかな。ギブソンが否定しているところの「頭の中にいる小人」を連想させちゃう気がする。だから逆に考えれば視界の表現って結構難しいんだなって思う。普通のカメラの映像のようではもちろんないじゃん、四角いフレームなんてないし。かといってどんなフレームなのかって言われてもよく分からない。円なのか楕円なのか、淵はどうなっているのか。ピントの具合はどうなのか。意識してみると結構すごい映像になってる気がしないでもない。調べていたらこんなのもあった(図3)。デビット・ホックニーというアーティストのコラージュ作品だけどこれは意外と違和感がないかもしれない。なんでだろ
(図2:引用元http://www.h2.dion.ne.jp/~ppnet/view49.htm)
(図3:引用元http://www.rikkyo.ne.jp/web/5520169/2009/03.html)