平面の話とか(新劇場版エヴァのDVDのヴァージョン違いについて)@mossya

前回の宮ちゃんの記事も、前々回書いたギブソン的な知覚モデルでは「画像の知覚は難しい」ってのを考察するために書いてたんだけど、今回のもその流れで書いたもの。

エヴァの新劇場版、序、のDVDには二つのバージョンがある。(違いについて参照:http://evangeliwon.blog107.fc2.com/blog-entry-390.html)一つはver.1.01でDVDで出たやつ。フィルムテレシネっていう映画館で見るような質感の映像になってるらしい。でその後にブルーレイとDVDでテレシネ加工前のver.1.11が出て、それはまあ追加シーンもあるらしいんだけどおまけ程度で、一番の違いは映像の質感だ、と。だから消費者からすると最初にわざわざ劣化させたバージョンを売ってその後で劣化前のバージョンを売るっていうふうにも取れなくはなくて、批判も結構あったらしい。それが原因かどうかは分からないけど、2期目の「破」は初めからver.2.22のブルーレイで出すということで、まだ発売されてないけどくっきりな元データのほうをまずは出すということなんだろう。
ともあれそのテレシネ版っていうのは、「劇場上映時の質感を出したいという庵野総監督の意向で起用された」らしく、商業的な目的もあったにせよ、なにより求める映像表現を獲得するために、この加工をする必要があったというのはホントなんだろうと思う。アマゾンのレビューは半分以上がこのバージョンごとの映像の違いについてであって、つまりそれは、人の関心が作品自体はもちろんなんだけど、むしろその作品を再生する再生環境のほうにも向かっているというふうにも取れる思った。昔だったら、再生環境というのはほぼブラウン管テレビで、画面の大小はあれどそんなにおおきな違いはなかった。でも今は再生環境が多様化したおかげで、製作者からしたら鑑賞者の再生環境を完全には想定できないというのが表現上の問題になるのかもしれない。DVDで出したとしても、15インチのブラウン管テレビで再生するかもしれないし、40インチのプラズマで再生するかもしれない。圧縮してネットブックに保存して見るかもしれない。プロジェクターで再生するかもしれない。映像もそうだけど音も同じで再生環境によって大きく左右される。

例えばポスターとかの印刷を印刷屋に頼んだとして、自分が思っていた色と違うのが来るとそれは満足できない。何も知らない人からすれば全く気にしないようなその微妙な色の違いでも、作る側からすると気になる。庵野監督にとっては、フィルムに焼かれた映像が暗い劇場のスクリーンに投影される、という再生環境が理想なのだろう。というかそうじゃないと彼の作品として認められないんじゃないかとすら思う。僕が勝手に思ってるだけだけど。でもそうじゃなければ、ほぼ同じ内容の映像を質感変えたバージョン違いで出そうなんて発想は生まれないんじゃないか。批判が来るのは目に見えてるし・・・。まあフィルムテレシネのエフェクトを掛けたからといってそれが鑑賞者の再生環境をコントロールするということにはならないけど、少なくとも、”こういう映像が自分が表現したかった映像なんです”という表明をそこですることが出来る。以下無償広告。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 通常版 [DVD]

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [DVD]

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ところでそのアマゾンのレビューで、ver.1.01は細部が潰れることで逆にリアリティが出てるみたいな指摘もあって面白いなと思った。これはエッチなビデオにおいて、モザイクがあるからこそ良いみたいな、dvdよりストリーミングの荒い画質のほうがむしろ良いみたいな、そんな脳内補完を礼賛するというような単純な話じゃあない。潰れているほうが絵として単に優れて見える、現実っぽく見えるということだ。それはなぜだろう。
ひとつの取っ掛かりには空気感というものがあるかもしれない。雰囲気とかいう意味ではなく、文字通り空気の感じについて。知ったようなこと言うけど、音楽でいうと例えばリバーブをかけるとそれっぽく聞こえるっていうのに近いんじゃないか。DTMでのリバーブは、音の残響を使って楽器が鳴っている「仮想空間の空気感」を表現している、といえるかもしれない。耳が良い人なら残響の仕方で仮想空間の大きさや形をある程度想像することだってできるのだろう。で、エヴァの映像がフィルムに焼かれることで細部が潰れた、これが空気感の表現になってるっていうことなんだけども・・・。その結びつき方は僕にはよく分からない。細部がぼやけることが空気遠近法的に働いているのかも知れない。
もう一つのアプローチとして、さっきの再生環境のリアリティみたいなのを考えた。まず空気感というのは、仮想のものであれ現実の、3次元のボリュームを持った空間を表現するためのものだ。残念なことにアニメの中の世界は現実じゃない。で飛躍するけど、もしかしたらアニメは、そもそも平面であることにリアリティが生じている表現なのではないか。そう考えると、アニメ内での空気感の表現(空間の表現)というのは、あってもなくても、それを見ているこの現実においてのリアリティの感じ方には何の影響も与えない。実際そうだ。ゴーストインザシェルもひだまりスケッチも同じアニメとして鑑賞している。冷静に考えてみればもう全く別の表現にさえ思えてくるwその2作品は、全く違うやり方で空間を表現している。片方はカメラアイなんかを超意識して空気感バリバリ、片方はパースとか奥行き感なんて無視って感じで。それにも関わらず、鑑賞のされ方としてはすごく近いところにあって、僕たちはそのどちらにもリアリティを感じることが出来る。それはやっぱりアニメ表現に見るリアリティの多くの部分が、その平面性からきているということの証なのかなと思う。三次元の空間を投影したものとして見る平面ではなくて、そもそもの平面。映画もその線上にある。ゴーストインザシェルよりもっと空間表現を厳密にしたものとして。まあカメラで撮った映像が一番厳密にこの現実を平面で表現できているのかといったらそれは分からないんだけども(前回の記事参照)。

ででで、この平面性からくるリアリティっていうところの、「平面性」っていうのは抽象的な想像上の平面ではなく、実際「そこにある平面」なんだろうと。現実にある平面、つまりテーブルとか紙とか壁とかPCのディスプレイとか、そういったリアルに触れるような物理的な「面」。僕だけかもしれないけど、平面をイメージする時というのはその平面を構成する物質を意識しなくてはならないと思う。けっして抽象的な形である平面を意識することは出来ない。多分。そんな平面は現実にはないから。空気に映像を投影するみたいな技術が出来たとしても、それは抽象的な平面を真似たベタな現実の平面でしかなくて、その映像にも特有の肌理みたいなのが生じるはずだ。ブラウン管と液晶ではその映像の肌理に違いがあるように。で、この肌理っていうのがまさしく物質性なんだと思う。

ここでエヴァの話に戻る。もう書くことほとんどないけどVer.1.01ってのは、フィルムっぽい独特の肌理がその映像のリアリティの担保に役立っているんじゃないかと。すごく当たり前で詰らない結論になってしまったけどもwそういう感じ。なぜフィルムっぽいテクスチャのほうがリアリティがあるかっていったら、それは分からない。多分人それぞれなんだろう。ブルーレイ的なくっきり映像と、フィルム映像、どっちに慣れ親しんでいるか、どっちにより思い入れがあるか、みたいなことで、ver.1.01と1.11、どっちによりリアリティを感じるか、というのは変わってくるんだと思う。

ギブソンネタは結構考えれば考えるほど面白い。
あとついったーはじめた。