マコちゃん的な建築を超えて@mossya

ギブソンの流れで書いてた文章を書き進めていったら卒論で書いたテーマの続きみたいなのが見えてきた。今回の記事あたりでギブソンネタは多分終了かな。というか今回のもほとんどギブソン関係ない。それでは以下本文。

馬、サラブレッドの話をふと思いついた。ギブソンは人間も動物もそんな大差ないって感じでハエとかも例に出しながら論を進めてるから、ここで馬の例をだしてもいいと思うんだけど。サラブレッドは走るとき自分の前足が視界に入るとビビッちゃったりするみたいなのを聞いたことがあるんだけど、それってギブソン的にはどう説明されるんだろう。いくら興奮していたとしても自分の前足にビビるとか相当いっちゃってるよね。まあ本当に興奮していていつも以上に足を前まで出してることに気づかず驚いてるんだとすれば、こういう状況ってのはすごく面白い状況だなと思う。認識のズレ的な意味で。
以前ちょろっと書いたけど上下反転メガネ、あれも前足に驚く馬と同じだよね。普段見えている世界が反転して見えるせいで上手く行動できないっていう。そのとき、世界が反転していると捉えるのか、身体が反転していると捉えるのか。これはコインの表裏ではあるんだけど、使った印象では環境のほうが逆さになっているという感覚のほうが強い。見え方としては、自分の身体はそのままで環境が眉間の辺りを中心として180度回転した感じ。天井が高いところだと足が浮いてるように感じる。で恐ろしいのが、そのメガネはずっとかけてると反転していることに慣れてきて、それが普通になっちゃうらしいということ。その感覚がどんななのかすごく興味がある。足が宙に浮いたりしている感覚のまま環境に慣れちゃうのか、それとも、足はしっかり地面についているものとして?・・・いやあ、よく分からない。どうなるんだろ。
上下反転メガネ。すっぽり被るタイプ。
でもまあここで重要なのは認識のズレに慣れてしまうまえの違和感「ズレ」のほう。imoutoidトークボックスの動画も例としてあげておこう。これの仕組みとかはよく分かんないけど、スピーカーから出る音を口の中でもごもごするとこうなるらしい。彼はこれに結構フェティッシュなエロさというか変態性を感じていたらしいけど何となくその気持ちも分かる。馬の前足の話と同じで。自分の身体が予期せぬ感じで動いちゃっててしかもそれに自覚的な感じ。で更にスピーカーから出てくる音ってのが能登麻美子だったりするっていう。声帯が予期せぬ感じで能登麻美子の声をトレスするとかすごいエロいよね?というかトークボックスとか言わなくても犯人とかが使うボイスチェンジャーを思い浮かべてもらえればこの例で言いたかったことには事足りたわ。
トークボックス
で、これらの例(馬の前足・上下反転メガネ・トークボックス)では、自分の身体の側を普通じゃない感じに変化させることで、環境に対しての既存の認識との間にズレが生じて違和感とか面白い効果が出ている (反転メガネは感覚としては環境が変化したように感じるんだけど、実際はメガネを掛けているだけなのでどちらかと言えば身体の側で変化が起きてると言える)。まあこれもコインの表裏なのでどちら側でズレが起こるかってのは区別する必要もないのかもしれないけど、この認識のズレを身体ではなく環境の側をベースにして起こすことっていうのも可能で、実際いろいろある。前に紹介した、建築のファサードに映像をプロジェクトするアーバンスクリーンもそうだし、オラファーエリアソンのまっ黄色の部屋なんかも認識のズレを光の効果で狙ってるんだと思う。環境のほうに変化を仕掛けるというのは、スパロボで言うマップ兵器みたいなもので、ある範囲にいる人間全員に作用する。それは公共的なものになる。逆に身体の側に起こる変化によるズレというのは個人的なもの。
で、このズレというのは単発で仕掛けてもダメで、なぜなら、人間はズレにすぐ慣れてしまうから。反転メガネの例然り、反転していることに本人が慣れてしまえばそれが彼彼女にとっての平常な状態ということになってしまう。その慣れとか飽きとかマンネリみたいな感覚っていうのは人間が平穏に安定して生きていくうえで必然的に付きまとってくる感情なんだと思うけど、それは本来もっとブリリアントであるべき日常を殺しているという風にもとらえることが出来る。
この慣れに対する根本的な解決策的なのの一つとしては、弱いけども、青木淳さんの文章と建築の中で一つ提示されていたように思う。僕がそう解釈してるだけで本来の狙いとは違うんだろうけど。その解決策っていうのは、「認識のズレを引き起こさせる変化を重層的に仕掛ける」というもの。それは、JINSっていうメガネ屋の前橋にある本社の建物を青木さんがやってるんだけど、その建物についてと、青森県立美術館の写真集JUN AOKI COMPLETE WORKS 2の中の文章「見えの、絶え間ない行き来」を読んでティンと来たわけなんだけど。文章のほうではたしかミースのファンズワース邸について書かれていて、その建物の見え方は見る距離とか角度によって微妙に印象が変わるっていう。遠くから見ると二枚のスラブが柱で支えられているように見えるけれど、近くで見るとその柱は実はスラブを貫通しているわけではなく、スラブを挟むように外側に立っていて、遠くで見るときと印象が違うみたいな、そんな話だったように記憶している。それで見えの絶え間ない行き来っていう。JINSのほうもそういう視点で見ることが出来て、遠くから見ると四角い白いボリュームが積み重ねられたように見える建物も、近づくとそれが有孔板のハリボテであることに気付かされ、さらに表側へ回るとそのハリボテがボリュームの体すらなしていない、塀のような帯状のものであったということに気付かされる。こういった作り方、断続的な裏切り行為というか、これが変化を重層的に仕掛けるということなんだけど。もう一つ大きいお友達向けに例を挙げると、これはついったーで書いたんだけど、みなみけっていうマンガとアニメがあるけど、その中に出てくるマコちゃんっていうキャラクターについて。みなみけのマコちゃんは男なんだけど、わけあって女装をさせられている。そのとき「父親譲りのダンディズムがー」とか言いながらスカートを穿かされるんだけど、アニメだから女装後のマコちゃんはビジュアル的には完全に女の子として描かれる。知らない人から見れば100%女の子だと思うように描かれる。よしのっていう女の子には気付かれてるかもしれないみたいなここでは関係ない話はあるんだけども、まあ完璧な変装。だから女装していると知っている視聴者の認識の中でしかマコちゃんは男の子でいられない。で、ここでは男性性を裏切ること(=女装)、逆に女性性を裏切ること(父親譲り的な台詞など)が、繰り返されるわけだけど、これも認識のズレを引き起こす変化を重層化させているっていうことね。でもこのズレは繰り返されることで、今度はズレること自体に慣れちゃうというか、変化がマンネリ化してしまってもはや何も裏切らなくなるっていうか、ズレがズレじゃなくなってしまうというか、そんな状況が起こる。だから視聴者はもはやマコちゃんが男性性を裏切ることとか、女性性を裏切ることとかは期待しなくなって、そういう変化を伴うキャラクターがマコちゃんなんだ、という風に認識を確立してきてしまう。キャラクターとしては優れているんだけどね。この例は役に立ったのかどうか分からないけど、JINSの場合もそうで、「見る距離や角度によって見え方が変わるという特性を備えた建物」としてその建物を見るようになったとき、重層的に仕掛けられたその仕掛けが、機能しなくなる。でも青木さんはそもそもそれを肯定してて、というかそんなことには無関心なのかも知れないけど、新建築でJINSについて書かれた文章では、人形劇とかの黒子を例に挙げて、私たちは仕掛けが丸見えにもかかわらず、人形劇を楽しむことが出来る、みたいな事を言っている。で、そういうのは「実体に裏付けられることのないリアリティ」だ、と。みなみけの例で言うと、マコちゃんは実体というか実態は男の子なんだけど、もうそんなのはどうでもいいと。マコちゃんはマコちゃんだ、と。だから僕が思うにJINSはマコちゃん的建築で、キャラクターのつくり方としては他とは一線を画す面白い作り方なんだけど、慣れとかマンネリから逃げ切れるような力を持ったものではないなと。でもおしい感じはあって、それをどう突破するかっていうのが最近の関心事。
JINS マコちゃん
で、まだよく分かんないから抽象的にしか書けないけど、なんとなーく考えてるのがある。
一つは、一生慣れないというか飽きない、マンネリから逃げ切れる可能性をもったものって「コミュニケーション」しかないんじゃないかということ。いまコミュニケーションとか書くとこいつもツイッター万歳かよとか思われそうで癪なんだけど、否定は出来ない。たぶん人と人の間のコミュニケーションの「ズレ」って、いくら饒舌な人でも頭のいい人同士でも、夫婦でも、全く無くなるということはないよね。そうなるとこのズレ、ディスコミュニケーションになんらかの期待をせざるを得ないなと。
あともう一つは身体側の変化で起こる認識のズレを利用するというもの。最初に挙げた馬の前足とか上下反転メガネとかトークボックスみたいな。これは建築家の領域ではないんだけど、今後建築分野でも使われていくだろう。AR(拡張現実)しかり。セカイカメラなんてのはiphoneっていう身体に近いデバイスを通して環境を覗くことで現実の世界との間にズレが生じてくるわけだけども、こういった身体側の変化で生じる認識のズレっていうのは、甲殻機動隊じゃないけど、身体能力の拡張みたいな技術が進歩していったときに大きな問題になってくると思う。で、重要なのは身体側からくるズレっていうのが当然パーソナルなズレになるっていうこと。さっきも書いたけど、環境側からくるズレっていうのはその環境にある人間全員に作用する。それに対してこっちは個人にしか作用しない。
この「ディスコミュニケーション」「身体側から起こるズレ」の二つのアイデアと、先の「変化を重層化させる」っていうベースとなるアイデアを合わせて考える必要がある。身体側から起こるズレっていうのは個人的なもので、ディスコミュニケーションっていうのは多くは個人対個人によるもの、環境側から起こるズレは無差別的。これらをどうにかして重層化させると、マンネリから逃げ切れるような気がしてるんだけど、具体的にはよく分からない。環境の側で仕掛けたズレに個人が慣れたとしても、身体の側でそれをまたズラす、そしてその複雑にズレた認識でコミュニケーションをとるみたいな。書いてみるとバカみたいでなにがしたいんだって感じだけどw、それを考えることは何か実のあることだと感じている。というかそう思いたい。