前回のつづき。(宮台さんのブログを読んで思ったこと)@mossya

前回の続き。先輩の家では修士論文の相談にも乗ってもらったんだけど、そのことここに書きつつまとめようと思ってたら宮台さんがブログ (http://www.miyadai.com/index.php?itemid=912)ですごい的確なこと言ってて、以下の文章なんだけどなるほどと思ったのでちょっと書く。現代においてアートの役割って何?みたいな話。例の日本画ustの話とも関連すると思う。
―――
もう徳川の時代からこれを意識的に設計してるわけ。天保の改革のとき、んろんなに芝居街と色街が点在してるのはマズイということで、色街ならば吉原に集約して、人形劇ならば人形町に集約する。そういうふうに空間を設計して、そこに非日常的な空間に存在すべきアイテムが、日常化的に登録されるわけ。つまり、社会が複雑になれば、「アートが所詮は登録されたものになる」のは回避できないし、回避しようとすることは実は馬鹿げてると僕は思う。
・・・
うん、回避できない。だったら「相手にどういう体験を与えるか」ということだけをコントロールすればいいんじゃないのかな。どのみち「ウソ社会を爆砕する」なんて、観念の中でしかできないわけ。だから、実際に社会を爆砕できるかどうかじゃなく、観念の自明性をどう崩すかをめぐって、非自明性を自明性として登録しようとする〈システム〉と、永久革命的に闘争するしかないの

―――
前半の部分について少し思ったこと。江戸時代はそれでもハレとケみたいなものとして非日常が「空間的に」区別されてた分まだよかったんだろうと思う。現代ではウォークマンの革新性みたいなところでも言われるように、ハレとケ、日常と非日常のあいだを、空間的な変化を伴わずに往復することが出来るようになってしまった。これは社会というよりはむしろ個人の認識のレベルで非日常を日常に登録しているというふうに捉えることが出来るんじゃないか。社会というマクロな視点で都市空間を見た場合、現代はすべてが日常であり、同時にすべてが非日常でもある。いたるところに張巡らされた非日常のタグを個人個人で取捨選択して登録しているようなイメージ。前にも記事で書いたけど、非オタクには秋葉原の電気街の側面は見えるけど、同人誌とかエロゲとかのアンダーグラウンドな部分が目に入らないって話。もっとも今ではもう多くの人が「アキバアンダーグラウンド」の非日常タグを日常に登録できるようになっちゃったかもしれないけどね。ジャンクションフェチとかもそうだよね。トマソンとかも。日常の中に非日常を誰かが見出してそれにタグをつける→フォロアーが登録する。ってながれ。Web2.0的な。

「非自明性を自明性として登録」っていうのはだからタグを見つけて登録するってことだと思う。で、そのあと宮台さんはそういったシステムに対して永久革命的に闘争するしかないって言ってるんだけど、これはどういうことなのか。もうこの一文読んで個人的にはキター!状態だったんだけど、最後のほうで宮台さんはシステムの中でループしてればそのうち新しい時代は来るよみたいな楽観的というか絶望的なことを言ってて、これ↓
―――
反復から逃れるとか、登録から逃れるとか、どうせできやしないんです。全ては権力の内側なんです。だから登録されたものを反復する。それでいいんですよ。ただ、登録されたものを反復するとき、実に微妙な形で「〈社会〉が〈世界〉に浮かぶこと」「日常が非日常の海に浮かぶこと」を示せるんです。
―――
それ闘争してないしそんな結論じゃ満足できねえよおお!と思ったけどその通りなんだよね。そのあとすぐ鳩山総理も辞任したし、全くのループなんだよね。無感覚すぎてギャグかと思ったもん。長門じゃねえんだからね。これは僕の研究の核心部分でもあるから結構悩んでる。

続く。