前々回からの続き(「そのうちズレがズレじゃなくなっちゃうんじゃね問題」について)@mossya

研究の話を少し。
4年生のときに考えてたのが「空間認識のズレ」っていうことなんだけど、つまり、目の前の空間と、頭の中で思い描いている空間がズレてる状態についての考察。誰でもなんとなく感じたことがあると思うんだけど。そういう不思議な空間って面白いよなーと思ってて、卒論的なのはそんな感じのを書いた。で、その中でたたき台として「空間認識にズレを生じさせる4つの手法」というのを提示してみた。
「スケールの変化」、「素材の変化」、「錯視的効果」、「機能の変化・消失」、っていうのなんだけど。
「スケール」はそのまま、普段見知っているスケールより目の前のスケールがちょっと大きかったり、小さかったりっていう。例えばドアがちょっと大きかったり、椅子が大きかったり。単に大きければいいというのではなくて、機械的に拡大してる感じ?ドラえもんのビッグライト使ったみたいな。「素材」もそんな感じ。内装に外装材が使われていたり、冷たそうな壁が温かかったり。フェイク素材の面白さっていうのも一つにはこれがあるんだと思う。ベニヤの壁に鉄板風塗装とか出来ちゃうわけでしょ。フェイク素材を使うと見た目と材料の特性がズレてしまう。「錯視的」は空間が歪んでるような状態。微妙に垂直じゃなかったり、湾曲してたりして、正確な空間が測れないような状態。「機能」は文字通り。それ使い方間違ってるよねとか、使えねえじゃん、みたいな。最近は床なのかテーブルなのか分からないような板がある住宅とかが雑誌に取り上げられたりしてるよね。そういうのは、床なりテーブルなりの「機能のズレ」を狙った演出だと見ることもできる。というか「スケール」も「素材」も「錯視的」もズレてくると機能に影響が出てくる。ソファのスケールが大きくなるとそれはソファの形をしたベッド?とかそんな感じになっちゃうよね。
で、手法はもっとあるんだろうけど、結局重要なのは既視感と未視感の操作みたいなところなんだろうと思う。突然だけど。椹木野依さんのシミュレーショニズムにもそんなこと書かれてた気がする。デジャブとジャメブだったかな。「見たこと無いはずのものなのに、なんか知ってる気がする。」「見たことあるはずのものなのに、なんか違う気がする。」こういうふうに思わせるための仕掛けを、「スケール」とか「素材」の変化を使って作っていく。やっぱり既存の認識と「ズレている」と感じるから面白いんであって、「全く別物」と感じてしまったら単に全く別の物なわけでつまらないんだよね。当たり前だけど。

ここまでが卒論のあたりで考えたこと。っていうか熱心なtake-sub読者なら(そんな読者は多分いないんだけどもw)、過去にぼくが書いた幾つかの記事も結構この辺を漂ってるっていうことを分かってくれると思う。ギブソンもそうだし、ARとか、スキャンと撮影とか、アモラルとか。アニメ系はまあ違うけどw

で、最近このズレのことで考えてるのは、「そのうちズレがズレじゃなくなっちゃうんじゃねw」っていうこと。スケールがズレててもずっとそこに居たらそのスケール感に慣れちゃうだろうと。せかっくズレてて面白かったのに、脳みその奴がそれを補正してしまうっていう。そこを問題にしちゃうのはそもそも基地外じみてると言えばそうなのかもしれないけど。
で、修論もこれについてやろうと思ってて。まあそういうことをここにベラベラ書いちゃっていいのかどうか分かんないんだけどね。先生にも論文になりませんよw的なこととか言われてるような段階だし。電波度高めで恥ずかしいし。でもまあそれがtake-subクオリティでもあるからここには書いちゃうし、結局論文も好きなように書いちゃうんだろうけどねw

ででで、長くなってきたけど、ズレの話も「環境の側」と「脳みその側」っていう何度か書いてるJJギブソンのコインの裏表の話であって、ズレを生じさせる手法としては、上記の環境側の4つの手法に併せて本当は脳みその側も考えてもいいんだろうと思う。つうかそっちも興味がある。でも、ここで問題を脳みその側に持っていくのはある意味簡単で、そういう考え方は結局ドラッグやればどんな空間も気持ちいいよねみたいなことになって何でもアリになっちゃうんじゃないかと。極端に言えばね。それは一つの回答ではあるけど現実味が無い。だから脳みその「慣れる」とかっていう退屈な機能はとりあえず普通に考えて肯定するべきだし、個々人の脳というか体が感じているデフォルトの空間概念みたいなものも尊重すべきなんだろうとは思う。当たり前だけど。だから「そのうちズレがズレじゃなくなっちゃうんじゃね問題」(=慣れの問題)は、なるべく環境の側の操作で乗り越えたい。

そこで、環境の側の操作で慣れに抗うための方法として少し可能性があるんじゃないかな?と思ってるのが、上の4つの手法のうちの1つにも挙がってる「錯視的効果」なんだよね。例えば左右の棒の長さが違って見える錯視とか、それが同じ長さだと分かっていても違って見えるわけじゃん。原理も結果も分かっているのに騙されちゃうっていう。そもそもがズレた状態で認知されるというその普遍性みたいなものに、慣れに抗するための可能性を見ることが出来るんじゃないか、と。
「錯視的効果」って、遠近法とかエッシャー的な限定的な意味での「錯視」意外にも、光の状態とか素材の特性なんかでも起こると思うんだよね。例えば下の写真はUN Studioの Office”La Defanse” という建物だけど、ファサードに光を変な風に反射させるシートが使われてて、おかしな見え方をしている。この色は素材の色というわけではなくて、シート面と観測者、太陽の位置的な関係によって決まってくる色だというのが面白い。つまりこれもある意味嘘の色を自覚的に見ているわけで、認知の仕方としては棒の長さが違って見えるみたいな錯視に近いものがあるんじゃないかと。モアレなんかもそうだよね。実際はそんな模様無いわけじゃん。でもそれは避けがたく見えてしまう。もちろん重なった模様が干渉しあって・・・とか説明も出来るけどね。この「本当はそういうものではないはずなのに“避け難く”そう見える」という感覚が重要なんだと思う。いまいちうまく言えてないけど。
UN Studio/Office”La Defanse”
flickrでいろいろな角度のを見れる(http://www.flickr.com/search/?q=UN%20studio%20Almere&w=all&s=int#page=2)
つうかこのジオタグっていうの?も面白いというかすごいね(http://loc.alize.us/#/geo:52.377446,5.213699,18,k/)
この例みたいなのは見る位置とかで見え方が変わるから、他人と同時に同じものを見ることができないというのも慣れに抗うためのポイントかなと思ってるんだけど、まだよく分からない。インタラクティブでメディア的でフェノメナルな感じ?w
ともあれ「錯視的効果」。錯視だけを扱うわけじゃないから名前を変えたほうがいいかなとも思ってるんだけどいまいちいいのが思いつかない。

あとこの前先輩宅でこれらについてアドバイスを乞うたんだけど、「慣れたほうがいい空間もあるよね」「住宅?商業建築?対象を絞って論ずるべき」「なぜズレてたほうがいいのかをもっと明確にしたほうがいい」「消費社会的な空間変容の速さへのアンチとして何か言えるかも」「錯視には慣れなくても、錯視しているということには慣れちゃうよね」「論文の構成としては錯視的効果だけをテーマにした方が分かりやすいかも」などということを言われたりして、まあビールも飲んでたしぼくの説明力不足があった気もするけどwそれを差し引いてなおいろいろいい話を聞かせてもらえて、とても参考になった。

とりあえずさっさと章立てして骨子を作っちゃえって話なんだけど、どーもね。「論文には発見がともなわなければいけないんですよ、解説書になっちゃあ駄目なんですよ。」みたいに先生に言われちゃったのもあってね。これを調べて考察することによって得られる発見って何なのかね。つうか解説書でも発見ってあるっちゃああるよねw。読むほうとしては。書き手が何か新しいことを見つけろってことなんだろうけど。それで「錯視と建築」、みたいな論文っていうのもあまりないんだよね。探すのが下手なのか。マニエリスムのトロンプ・ルイユとかについて書かれたりしてるのがポツポツな感じで。あとは形態の認知についての論文とか。あまりピンとくるのが無いんだよね。

・・・という感じで、まだふわふわと考えをめぐらせている状態です。

この辺のネタもうちょっと続くかも。