何の(誰の)為の建築(空間)か@mossya

今回は建築の話。

この間先輩と話したことを書こうと思ってて、今日ついったーで収納とかモノと空間の話が出てたからおっと思ってダーっと書いた。写真貼るのはメンドイから各自ググってください。

この間卒業した先輩が来てて飲みにつれて行ってもらったんだけど、なんかすごい濃い時間だった。その中でこの前日記にも書いた1900年頃と今の2000年頃の状況が似てるみたいな話をしてて、まだ現代はバウハウス校舎みたいな革新的な建築が出てないですよね、みたいなことを聞いてみたんだけど。先輩がいうには、現代では当時のようなどうしても建築を変えなくてはいけないような、変わらざるをえないような、社会の状況の変化が起こっていないからじゃね?と。近代建築が、古代から続く神の為の建築から人間の為の建築へ、みたいなことがきっかけになって起こっていたのに対して、現代ではそのような根本的な変化が起こっていないから、素材や工法がいくら発展しても当時のような革新的な建築は生まれえないんじゃないか、と。全くその通りで、じゃあ人間の為の建築の次に来るのは何の(誰の)為の建築なのだろう。

で、そのことを考える上でそもそも教会建築は神の為の建築だったのか?という疑問が浮かぶ。別の例だと、馬小屋は馬の為の建築であるか?という疑問。

まあよく考えれば実際どちらも人間の為の建築であったな、と思う。ただ人間が人間以外の対象を扱う為の建築というか、空間。家に物置部屋作るのと変わらない。近代建築が、多くの人間を一度に扱う為の空間を本気で考え出したという点ではそこに明らかな変化があるけど。結局は過去から変わらず人間本位であった。

建築を作るときに人間をどう扱うかというのは根本にあって、それは避けられない問題なんだけど、近代建築を乗り越える上での脱人間的な流れが片方では考えられていたように思う。例えばポストモダンの頃磯崎さんが使っていたプラトン立体というのは、建築を人間から乖離させていくような手法としても見れる。ザハハディッドがザピークのコンペで提示した、透視図をいじくって建築自体が粉砕していくようなイメージというのも建築の脱構築であり脱人間であったように思う。

脱構築の流れで言うとリベスキンドユダヤ博物館なんかもあるけど、あれはむしろ古典的な教会建築のようなもので、結局人間に媚びてると思う。なんていうのかな。機能が機能だけに単純に同情を誘うデザインであって人間本位な気がする。

磯崎さんの群馬県立近代美術館とかザハのザピークの案っていうのは、少なくともコンセプト上では、機能を含めた人間的な部分に全く束縛されないような形態を目指しているように(も)見える。人間に媚びない純粋なモノ性というか。実際には人間を扱うわけだからそれは不可能なんだけどね。

最近のだと藤本荘介さんのムサビ図書館はどうだろう。構造体である本棚が渦を巻くようにして出来た建物。図書館なので当然本棚が必要になる訳だけど、ここでは本棚というどうしようもないくらい人間に奉仕してくるような要素を上手く"モノ"に格下げしているように思う。磯崎さんがプラトン立体、ザハが爆発という外部的な絶対的な要素に形態を委ねたのに対し、藤本さんのは本棚と構造という建築の避け難い部分にコミットしつつモノ性を獲得できているという点で評価できると思う。

モノ性ってなんかの哲学用語なのかな?よく分かんないで使ってるけど、ここでの意味は何となく察してください。うまく説明できない。


ところで一方、今年の建築学会のコンペに応募してた後輩の案には、動物の為の建築というものがあった。これは馬小屋的なものではなくて、純粋に動物の、猫とか鳥とか、虫とか草とか、都市にいるあらゆる動植物の為の建築。人間は入れないのかな?スケールが人間ではなく彼らの大きさに設定されている。こういった案はここ最近の環境云々が言われ出す前にはありえない提案だったというかいまでもありえないと思うけど、それでも脱人間の建築を直接的な形で実現させていく為のラディカルな1案だと思う。

そんな感じで。結論らしきものはなし