流行とか空気を読むということについて雑感

ツイッターで書いたことのまとめ+増補。

まず建築家C.R.マッキントッシュの装飾やインテリアが初期のビアズレイ的な曲線モチーフから、後期の直線的で幾何学的なモチーフに移行していったことについて。以下引用

マッキントッシュの図書室を埋めたあのきらめく点のような装飾は、緩やかに壁面をうねっていた世紀末の官能的な曲線が次第にその振幅を小さくしてやがて静かに停止する、まさにその直前の状態ではなかったか。そしてこの振動が停止した瞬間に、マッキントッシュの建築家としての生命もまた終わりを告げたのであった。まさしくこの建築家にとってあの図書室は、時代的な状況と自己の身体とのズレの限界の表現であったのではなかったかと私には想像される。」伊東豊雄―白いまどろみから醒める時

伊東さんうまいこと言うよなあ。しびれる。でもマッキントッシュの作品を見ていると、彼にはもともと直線とかストライプ、格子模様に対する志向があったと思う。後期の幾何学的な水彩画はむしろ一番素直な表現に見える。まあアールヌーボーが収束して直線的なデザインに社会の流行が移行していったのは事実で、その中で表現することに対しての葛藤はあったかもしれない。でも流行に押し流されて嫌々直線を使い出したんではないだろってことね。


100年経った今の時代を考えると、今は流行には乗っても乗らなくても好きにすればいいって感じ。建築にしても、マッキントッシュの時代と違って一生のうちにいくつの様式(的なもの)が生まれて消えるか分からない。波乗りしたところで非難も葛藤も特にないだろうと思う。でもそんな中で”その人っぽさ”みたいなものが作品からにじみ出ていないと評価はされないんだろう。
結局流行ってても流行ってなくても興味があったら乗っかれ!ってことかな。そこで変な意地や葛藤を持ち出しても痛いだけっつうか。流行を意識しすぎる人も毛嫌いする人も根本的には同じ思考をもっているんだよね多分。ツイッターの@tanachaosの"先人の流行から趣味を見つける"っていうのはたしかにwミニ四駆とかたのしいしね。そういうのって流行に対するアンテナとは別のアンテナがないと見つけらんないと思う。去った流行の中にも面白いものも詰まらないものもあるから。より多くのものを主観的に見る、でそこから面白さを"見出す"って能力は現代では重要だと思う。


でこれもツイッターで貼られてて読んだんだけど
『「集団的知能」を決めるのは「個々のIQ」より社会性』(http://wiredvision.jp/news/201010/2010100422.html)
こういうのとかクソ食らえな感じなんだけど。結局空気読んでればおkってことでしょこれ。

「われわれの社会は、皆が相互に結びつく社会へと向かっている。そのなかで、知能とは何かという概念が、個と集団との関係のなかで問い直されつつある」

ってのはそうかもしれないけど、でも結局ブレイクスルーみたいなのは個人の脳みそというかゴースト的なものからしか生まれてこないと思うんだよね。それと多くの人はその集団だけに属しているわけではないということも重要。集団ごとに性格やらなにやらを最適化してマルチタスク的に空気読むとか無理だし、一人ひとりの違った特性が一つの集団の中にミックスされていったほうが面白いものは生まれてくると思う。外から見たときに集団が知能を持ったように見えたとしても、やっぱり中の特定の人が何かを発火させているわけで。そこはやっぱり知能というか、上で書いたような"見出す能力"とか"その人っぽさ"が重要になってくると思う。

mossya