「ハイパーリアル」→「リアル」←「リアリティ」みたいな感じ?

美術手帖No.252の「応答する眼」展の特集で書かれていた文章に、こんなのがあった。

ジョセフアルバースはかつて「物理的な事実と心理的効果の矛盾」ということをいったが、これは、どのような一枚の絵画も、実在物という意味で物理的な事実であると同時に、他方心理的な効果をうみだすものでなければならないという矛盾を意味している。

ジョセフ・アルバース「正方形賛歌」

結構前に書いたリアルとリアリティの話も言い換えるとこういうことだよねーと思って。あとギブソンの記事なんかも絡んできそう。あとは以前ウォール伝で耳蝉さんが「ハイパーリアル」について書いた記事の中で引用されていた文章にも近いなーという感じ。そんな感じで今頭の中でかなりいろいろリンクしていて、全然纏まってないけどとりあえず書いてる。

耳蝉さんの「ハイパーリアル」関係の記事は、一番新しいやつにリンクを張っておく。「ハイパーリアル」で日記検索して遡れば更に詳しい。最初の記事には僕も一回コメントしてて、次の記事で返答してくれている。

ウォール伝はてなバージョン 『これまたハイパーリアルみたいな話。』

例の引用部分、ゲーデルって人の言葉らしいんだけど該当部分だけこっちにも引用させていただく。

感覚からかけはなれているのに、公理はそれ自身が真であると強制している。この事実からもわかるように、私たちは集合論の対象物に対する認識のような何かをもっている。なぜ私たちは、感覚認識よりも、この種の認識、つまり数学的直感に対する自信を失わなければいけないのか私にはわからない。この数学的直感は、物理理論を築き上げ、未来の感覚認識はこの数学的直感と一致するだろうということを期待させる。さらに、この数学的直感は、現在では決定可能ではない問題が将来意味をもつようになり、決定されるかもしれないということを信じさせる。数学における集合論パラドックスは、物理におけるだまされるという感覚に比べ、そう難しいものではない。

これってアルバースとほぼ同じことを言っているようにも見えるけど、多分すこし違っていて、ここでい言う「感覚認識」ってのはアルバースの言う「物理的な事実」ということなんだろうなと。で「数学的直感」みたいなものがすなわち耳蝉さんの言う「ハイパーリアル」。

構図としてはリアルとリアリティの話を絡めると「ハイパーリアル」→「リアル」←「リアリティ」みたいな谷のような構造が見えてきて、「数学的直感」→「物理的な事実・感覚認識」←「心理的効果」がそれぞれ対応する。

その中で人間の肉体、物質としての身体は「リアル」の階層に置かれるので、「ハイパーリアル」→「リアル」にせよ、「リアル」←「リアリティ」にせよ、その間で生じる落差、矛盾といったものは「リアル」を基準として体感される。一方は「数学的直感」と「感覚認識の落差」、もう一方は「心理的効果」と「物理的な事実」の落差、って具合に。「ハイパーリアル」と「リアリティ」は、宇宙的な法則と脳みその中の何か、という相対する位置にあるものでありながら、どちらもその落差で「リアル」を牽引するという役割を担っていると思う。


少し話が変わって、ジョセフ・アルバース、オプ・アートからJJギブソンのあたりについて考えたこと。

ジョセフ・アルバースとかオプ・アートについてはここで説明するよりぐぐったほうが分かりやすいと思うので書かないけど、アルバースはオプ・アートの先駆けとなるような視覚的な絵画を描いていた人で、上に貼った「正方形賛歌」シリーズなどが有名。

アルバースのフォロアーとして活躍したオプ・アートの作家(作家というより研究者に近い人たち)は、「正方形賛歌」におけるキャンバスという「物理的な事実」を限りなく透明にしようと勤めていたように思う。「正方形賛歌」に描かれる正方形の色や大きさのコンポジション、そのなかに現れる「作家性」というものを排除していくことでこれが達成される。市販の規格寸法のマスキングテープを用い、純粋に数学的な等分割付で、白と黒のストライプを描く。これは耳蝉さんが"「ハイパーリアル」に限りなく接近してく"というようなことを言っていたと思うけど、それに近いアプローチ。彼らは逆に「心理的効果」に限りなく接近していく。


ギブソンについて

絵画に限らず芸術というのは「何かしらを表徴するもの」だと思うんだけど、そこには必ずアルバースのいうような「物理的な事実と心理的効果の矛盾」が付きまとってくる。これはJJギブソン生態学的知覚論の中の話とも絡んでくることで、"ギブソン的な知覚モデルでは平面(写真など)の知覚についての説明が難しい"っていうあの問題について。写真の平面というのは絵画と同じで、それ自体平らな紙という物質であると同時に、それが撮られた環境を表徴するものでもある。

ギブソンの知覚モデルというのは、目の中に入ってくる、正確には目の周りを取り囲んでいる光の配列(包囲光配列)に、人間の行動を喚起するすべての情報が含まれているというものなので、この考え方はアルバース以降のオプ・アート的なアプローチと表裏をなすような?ものだと思う。

つまり、ギブソンが徹底的に「物理的な事実」が人間にもたらす情報について研究していたのに対し、オプアートの作家は「物理的な事実」を極力消すように努力しながら、「心理的効果」だけを求めた。ギブソンの理論で壁に当たるのは、こういった芸術とか、表徴されたものに対しての知覚の部分な気がする。


だから何だ・・・っていうかギブソンについてはイマイチよく分かんないかも・・・って話で終わり。


おまけで下に1965年にニューヨークで開かれた展覧会「The Responsive Eye(応答する眼)」の動画を貼っておく。この展覧会でオプ・アートというカテゴリが輪郭作られたらしい。今見ても全然古さを感じない。そしてこんな動画まであるyoutubeさんぱねっす


mossya