"撮る/撮らされる"の関係?

写真とかカメラとかあまり詳しくないんだけど昨日のついったーのやり取りを見て思ったことを記しておこうかなって。

その前に弁明というか声明というか、僕は今年の春大学院卒業して、ギリギリの時期になってやっと就職できたんだけど、それをここに書いてなかったので。先延ばしにしていた理由はまあ他のtakesub仲間がまだ決まってなかったりしたってのもあるけど、何より気分的に書く気にならなかったんだよね。そんな華やかなところじゃないし。どちらかと言えば大学で学んだことをダンボールに仕舞ってひたすら手を動かすような感じで。錯乱のニューヨークでレムがいうところのロボトミー状態だよね。法規コスト納期にがんじがらめにされた奴隷とまでは言わないけどまあ似たような。それは仕事を始める前というか大学時代から分かっていたことで、仕事をしてお金を手に入れながらも如何にして奴隷化/ロボット化に抗うかということを考えていたんだけど。それでまあ一番いいだろうなあという方法が、今まで読み続けていたいくつかのブログやらツイッター、他のタケサブメンバーや大学の知り合いとの関係から得られるインプットと、このブログへのアウトプットであると。やることは保守作業みたいなんだけど。リアル世界がまあアレなんでその意欲すら無くなってもおかしくない、っていうのが今は不安ではある。でもまあ今の所はそこまで冷めてないしリアルも全然クソっていうわけじゃなく、当然入社したてで多く学ぶことがあるから充実してるっちゃあしてるんだよね。今後どうなるかわかんないんだけど。やっぱりネットは素晴らしい安定剤というか不安定剤だよなあと。安定することは人間的に死ぬことだからね。幸い僕は鬱とかストレスで寝込んだり物理的に死にたくなったりとかいうレベルのナイーブさを持った人間ではないようなので、精神的には死なないようにしていたい。

で、長くなったけど写真の話。ツイッター上でつるぽん(tsutsutsuruta)が「ドールとかフィギュアとか、あとコスプレも含んでいいと思うんだけど、それらとそれを写真におさめることの関係ってどうとらえればいいんですかねぇ?」という問いを発していて、さらにそれに聖地巡礼などを絡めて空間的に考察したいみたいなことを言っていたんだけど、でG.I.(sparganum)氏といろいろやり取りがあって、そのあと僕も少し書き込んだんだけど、まあ諸事情あって全部引用できないしはっきりとした枠組みがある議論ではなかったんだけど、面白かったのでその後で僕なりに考えたことをここに書こうと思う。つるぽんの参考になるかは分からんけど。

まず僕はコスプレの写真を撮ることと、ドールとかフィギュアを撮ることは別の動機が働いていると思っていて、前者は撮るというより"撮らされる"感覚に近いんじゃないかと。でそのあと後者の方がより高尚であるというかより変態的な行為である、みたいに書いちゃったんだけど、それに関しては必ずしもそうではなくて、GI氏が指摘してくれたんだけど、「フィギュア撮影は想定の外に行けない行為だと思ってます。撮影者の計算の外には出ませんね。ドールのサイズ感まで来るとロケハン含めリアリティの付与が色々可能になってくるかなと思いますが」と。これはその通りで、高尚であるとか変態だとかいうよく分からないものさしで計っても意味ないということに気付いた。でまあさっきの"撮る/撮らされる"の関係、撮影者の能動性の違いについて。さっき書いたコスプレの撮影もコミケとかの一対複数人でっていうのと、お金を払って一対一か分からんけど、うしじまいい肉さんみたいな感じで撮影するのとではまた違うなと。一般的なコスプレの撮影って多分前者だよね。前者の撮影はコスプレイヤーがまずいて、その前にカメラを持った自分がいる。アフォーダンスよろしく、その環境がカメラを持った人間に撮影を促す状態であると思う。秋葉原のホコテンでゲリラ撮影会をしている絵なんかを見るとまさにそうだよね。対してうしじまさんの写真の魅力は、彼女がコスプレイヤーでありながらなんというかフィギュアとかドールの写真であるかのように写っていることなんじゃないかと。これはもうGI氏のいうサイズとリアリティの話になって、さらに建築的な言い方をすればスケールの話だよね。100分の1の建築模型がフィギュアのスケール感、30分の1になればドールのスケール感、といったところかもしれない。じゃあうしじまいい肉さんは?ということになるんだけど、単純にリアルの建築写真、ということにはならないんだろうと思う。この辺が聖地巡礼と絡んでくるのかなって思うんだけどよくわからん。聖地になってる建物や場所って、それ自体が絵的に綺麗な場所じゃなくても、アニメだったり虚構の絵と重ね合わせられることで撮る価値のある場所になってるじゃん?まあ素のうじじまいい肉さんが撮るに値するかどうかってのはすごい失礼な話になるわけだけど、虚構が重ね合わせられているからこその魅力っていうのがあるよね。能動性の話どっかいっちゃったな。聖地写真って完全に"撮らされる"ほうに属するしね。

あとコスプレ写真には今やフォトショップが欠かせないようだけど、それは建築写真でも同じだよね。その辺の撮影者(加工者)の能動性ってのにも興味がある。

そんな感じで。適当に書き散らしてしまったし、いつも以上にキモイ記事に仕上がっちゃってすいません

mossya