五十嵐太郎さんの「スーパーフラット再考2010」を読んだ感想@mossya

ちょっと雑談から

以前の記事でUNスタジオのカラフルな建築についてふれたと思うんだけど、a+uに中の人の素晴らしい文章が載っていたので下に引用する


アンコンストラクテッド・ドーム(未築の蒼穹
これは私が最も気に入っている写真である。その理由は、この写真があたかも、デジタル・カメラによる絵画のように見えるからである。私は以前から動きと写真に興味をもってきた。写真にわずかな動きを加えることで、空間の中に空間をつくりだすことができる。写真のそのような点が、私には刺激的なものに思われた。この写真は焦点が合っていないように見えるが、実際はそうではない。実はこれはダブル・イメージである。この二重化は、イメージの中で落ち着くことの場所を見出そうと視線がさまようことを意味しており、そのために私はこの写真を『アンストラクテッド・ドーム(未築の蒼穹)』と呼んでいる。また、対象となっているドームの形状ゆえに、写真の正面に立つとあたかもこの中空の空間へと踏み込んでいくかのような感覚を覚える。イメージの中の動きも、この感覚を強めている。(ベン・ファン・ベルケル/UNスタジオ)a+u460


写真は雑誌からスキャンしたもの。クリックで拡大するので拡大して見てほしい。この文章を読むと、あのカラフルな建築の意図するところが分かる。視線がさまよう感覚、実体みたいなものを見ることが出来ない感じ。


この感覚は個人的にすごく面白いと思ってるんだけど、でも「もしかしたらこれってスーパーフラットの域から抜けてないんじゃないか」って、最近少し引っかかってたんだよね。

で、ここ↓見たら五十嵐さんがそれらしいことをいってて、やっぱりそうかもなって。そもそもスーパーフラットの射程が広すぎてそこから抜けられる気がしないってのはあるよね。カオスラウンジにしても。

五十嵐太郎スーパーフラット再考2010ーー微細なデザインからみえるもの」(http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/JH9XzdY48bWSp7sg2mAh)
中村竜治さんの「とうもろこし畑」についての部分。少し引用させてもらう。興味ある人はそんな長くないからリンク飛んで読んで。
 とうもろこし畑が興味深いのは、ぺらぺらの表層的な紙でありながら、なおかつ構造体になっていることだ。しかも立体的なオプ・アートのような、錯視効果を生む装飾的な幾何学である。スーパーフラット建築において論じた青木淳ルイ・ヴィトン名古屋の表層における操作が拡張し、ついに空間を獲得したかのようだ。とうもろこし畑では、構造を安定させる強いかたちから構成されているのだが、その部材が細く、単位が小さく、また無数に反復されているために、かたちが消えていく。全体のヴォリュームとしては三角柱になっているが、それも便宜的なものであり、おそらく現象だけが鑑賞の記憶に残る。微細な線の集積ゆえに、目の焦点をあわせるのが難しい。動きながら見ると、さまざまな方向に視線の抜けが発生する。また人の手作業がもたらすわずかな偏差は、幾何学にゆらぎを与えるだろう。そして構造を強化すべく、床に近い部分は紙がやや厚くなっているために、眺める方角によって、均質なフレームによる透視図とは、かすかにずれた奥行きを生む。とうもろこし畑をじっと眺めていると、幾何学的な造形ながら、それが生命体のようにもふるまう、『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する使徒のように思えてきた。

とうもろこし畑について、立体的な錯視効果が生じているっていうのはなるほどそう思う。錯視効果ってのがぼくの研究にドンピシャ。引用部分は当然スーパーフラットの文脈で語られてるわけだけど、ここではそのもう一つ先の可能性も示唆されているような気がした。

とうもろこし畑は、ぱっと見焦点が合わなくてフラットな感じではあるけど、実際は逆に遠近法的な知覚を増幅させるように出来てるように思う。ただそれがやばいくらい反復された為に錯視的に見えてくるってっだけで。その点で言えばカオスラウンジの梅沢和木さんの画像もスーパーフラットではないと言えるよね。そもそも誰も言ってないかもだけど。あの画像群はドットの荒さとかネットの階層の潜り具合だとか時間的なキャラ変化の文脈なんかが重なって、むしろ深い奥行きを感じる。でもぱっと見カオスで焦点合わないからスーパーフラット的にも見えちゃうって気がするんだよね。中村竜治さんのと一緒で。

そう考えると、錯視的な焦点の合わなさっていうのには、スーパーフラットを超える何かがありそう!という風にも思えてくる。まあその辺に興味があるから実際はそう”思いたい”というのが大きいけどw

スーパーフラットは「奥行きがあると思ってたものが実はフラットでした」っていうのを表現していたのに対して、とうもろこしや梅沢さんの画像群は「一見フラットに見えるけど実は奥行きあります」みたいな、全く逆のことを表現してるようにも思えてくるんだよね。動物的な身体の知覚と認識のズレを利用して奥行きを隠蔽する、そういう意味ではアイロニカルにスーパーフラットを乗り越えうるものにもなっているんじゃないかと。

ところで、このように考えても最初に挙げたUNスタジオの例はスーパーフラットから抜け出しているかといえば微妙だよねw。錯視的な手法を使って焦点が合わない感じにさせてるけど、その裏側に奥行きが潜んでいるわけではなく、それは純粋に平面だから…。好きなんだけどね。

それにしても『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する使徒のように思えてきた。(キリッ みたいなw 妙に納得しちゃったし。

あと五十嵐さんの文章読んで感じたんだけど「錯視的」っていうより「オプアート的」とか言った方がいいのかな?でもオプアートって言っちゃうのもアレな気がするし。「オプ的」? UNスタジオのなんかは錯視でもオプアートでもないよね。論文のタイトルに入れられるようななんかいい言葉ないの