川上未映子のヘヴン読んだ@mossya

川上未映子のヘヴン読んだ

この間書いたカレカノを見終わった後。行きつけのファミブにDVDを返しに行き、つぎは何を借りようかと悩んでいた。最近ずっとアニメ¥99だから。ところであの店のレンタルの価格設定ややこし過ぎて困る。常になんかのキャンペーンやってて、借りるの選んでるときは頭の中でいくらかかりそうか計算してるんだけどそれがあまり当てにならないから結構怖い。¥99だと思ってたのが¥299だとか399だとか、たまんないよね。でもまあ最近はなぜか安定してアニメは¥99で助かる。で、僕はもうカレカノ見てアニメやべえええマジおもしれえええ状態だったので、これまで鬱りそうで敬遠していた天下のCLANNAD的なものををね、今ならいけるかも知れない…!という感じで見てみようかなーと思って。それが陳列されている辺りに歩いていったわけ。7、8巻くらいかなちゃんと全巻あって、1巻から順に手にとってみるんだけど。…アレ、なんかおかしいぞ、と。この感じはなんというか高校の教科書で読んだ梶井基次郎檸檬のワンシーンのようであって、彼が画集を本棚から出しては床に積み上げていったのとおそらく同じ種類の倦怠感というか、疲れが、CLANNADのDVDを一枚一枚ケースから引き抜く僕の脳みそというか体全体に生じていたのだった!…なのでまあ今回はいいやと思って檸檬爆弾を仕掛けるでもなくDVDをもとの場所に戻して、本でも見ていこうと書籍コーナーのほうへ向かったのね。本屋行くと普段気になってる作家でも、あれーあの作家なんて名前だっけーっていうど忘れって結構ない?たしかカ行っぽかったような…みたいな。で最近川上未映子って人がキテルらしく方々で名前聞くので読んでみたいっていうか短編集は前に読んでたのね。先端で刺すわ何ちゃらっていう。あまり内容は覚えてないけど少し覚えてるのはつり革につかまる手首がこわいみたいな話があって、ああ分かるわーって。「切羽詰った感」という言葉をこのブログで何度か使ったりしてるけど元はたしかこの小説で手首に対して使われてた表現だった気がする。たしか。で、その川上さんが最近書いたヘヴンって小説があってそれを読んでみたかったんだよね。で探すんだけど案の定作家名をど忘れして帰りたいとか思ってたらおすすめコーナーに普通にあった。
家に帰って夜中の0時くらいだったけどまあ冬休みだったし読み始めて。もうね、途中で一度蕎麦食ってまた読み続けて、読み終えたのが朝方だったのでコジマのことを考えながら寝た。
読みながら考えたことは多々あるんだけどもいざ書こうと思うとどうも考えてたことが浮かんでこない。いつものことだねー。とにかく以下ネタバレしつつ感想をかく。


コジマが死んだのか狂ったのか分からないけど最後あっさり過去の人っぽくなったのがどうも気に食わない。コジマには狂ってでもなお現実世界に対峙してほしかった。世間一般の解釈では、いやかなり解釈が分かれるところではあると思うけど、主人公である僕は最後、百瀬的なものからもコジマ的なものからも距離を置いた、第三のスタンスに立つ、立とうとする、といったものが多数派であるように思う。しかし本当にそうだろうか。主人公は実質的にはほぼ完全に百瀬的なスタンスに立ったのだと読めないだろうか。これは僕の読解力の無さから来るものである気がしないでもない。最後公園のシーンで、百瀬とコジマの声と顔が入れ替わるように感じてしまうところは、表現としては主人公が百瀬とコジマのスタンスを等価で表裏をなすものとして受け止めているように見える。しかし実際話の内容としては百瀬が何度も言うように、百瀬が言っているのはシステムのことであって、いくらコジマの論理が崇高だからといって、それとはぶつかりようが無い、その崇高な論理を内包するひとつ上の階層について話しているんだ、という全くその通りな事実だった。コジマはただ出てきて全裸になって百瀬に指一本触れられずに屈服した。しかも最後にコジマをなぎ倒したのはコジマと同じ階層にいる二ノ宮であった。僕は二ノ宮はおそらく百瀬に好意を寄せているゲイだと思って読み進めていたけど、そのことに関してはネット上で検索してみても誰もノータッチなようだった。まあ実際ゲイにするべき理由も分からないしゲイだからといって物語の大枠に変化はない。二ノ宮はそんなかわいそうな奴であった。コジマはその二ノ宮に対してすらその崇高さを分からせてあげることが出来なかったのではないか。そして狂気がピークに達し過去の人となったコジマに比して、結局主人公は最初から最後まで文字通りの意味で何もしていないし本質的に殆ど成長していないように見えた。すべて中途半端に受動的であった。斜視を治す手術を受けるのも義母のアドバイスがあってのことだ。結局最後に主人公が立ったスタンスというのは、システムを理解した上で諦めと楽観のなかでコジマを風呂に入れたような思想を持ちながら生きるということではなかっただろうか。これはぜんぜん第3のスタンスなんかではない。単純に百瀬のスタンスだ。別種の飛躍があるとすれば最後の最後である。斜視が治った両目で並木を見渡すシーン。あそこで提示される美しさというのは何なのだろうか。あれはヘヴンなのか、分からない。
かなりアレな感想になってしまった。頭の中で考えてても本当に考えがコロコロ変わるっていうか、もっと複雑にああでもないこうでもないとやってるんだけども、いざ書いてしまうとなんとあっさりねっちりな批判的な文章になってしまっていることか。でもまあつまらない小説ではなかったなあと思う。
おわり。あとこの記事の前半どうでもいいな。読み返すとちょっと恥ずかしいわw

ヘヴン

ヘヴン